2007

 
 

Eliquatuero dip eros numsan vent lam, conum tet lor adit, commod tatummy niam dolorti onullaore dolor in estrud dunt iure te feugiam modit dolorer iure do con ulla dolor et mconse ming ex ent am, quat velenit exuti erciut tate duipsusci et landrem zzriusc inim nul laorem dipit nosenu nonautpat. Ut landiat ute te dolobor tis et nulput luptate tat vendreet lortiset dunt feugiam modit dolorer etuin lutatum mconse.


Duis nonsequ et ismodol oreetuer iril dolore facidunt, vulluptat volore consecte dolesed utou dolor se velitdip numsan vent, conum tetut lor adit, commod tatummy niam dolorti onullaore dolor in et estrud dunt iure te feugiam modit dolorer iure do conulla et mconse ming exentam pounei, quat velenit exerciut tate duipsusci et landrem zzriusc inim nul laorem velenisit iure.


Duis nonsequ et ismodol oreetuer iril dolore facidunt, vulluptat volore consecte dolesed utou dolor se velitdip numsan vent, conum tetut lor adit, commod tatummy niam dolorti onullaore dolor in et estrud dunt iure te feugiam modit dolorer iure do conulla et mconse ming exentam pounei, quat velenit exerciut tate duipsusci et landrem zzriusc inim nul laorem velenisit iure..

 芥川の上流域には、古代~近世服部郷の井堰5カ所の南、大蔵寺垣内に隣村郡家村井堰があり、その150間くらい下流に真上村井堰がありました。郡家村井堰からは郡家村のほかに、東五百住村が用水を確保しており両村の間で争論がたびたび発生しています。

 真上村井堰は真上湯の別称として四ケ郷湯とも呼称され、ここからは真上村の下流村である上田部村、古曾部村、高槻村が用水確保していました。中世この井堰は西国御家人真上氏が支配していましたが、室町期に芥川氏が」台頭すると、芥川村が井堰仲間に加わり、「四ケ郷湯」となったのです。それまでは三ケ郷湯と呼称されていました。

 この2カ所の井堰に関わって、服部村と関係村との間に始終争論が発生していました。永禄2年三好長慶が裁許した郡家村と真上村の争論は有名で、その際の裁許状と付図は高槻市の有形文化財にもなっているものの、問題の井堰が芥川のどの位置に存在したのかさえ不明のままで、高槻市史でこの部分を担当した河音能平氏も「まかみ井」の位置を間違っています。芥川は三好長慶以降に川替えされており、昔の流路が不明だったからです。

 今回拙著「芥川上流域における水論の史的研究」では、新史料を駆使して古芥川を復元、史上にみられる井堰の位置を確定、水論の要因を解明しました。取り扱った期間は天文から明治まで、300余年にわたる時代における争論をことごとく取り扱った次第です。

 この著書の中では、水論以外にも真上氏や真上城の位置、

高槻出身ともいわれる戦国の梟雄松永久秀の屋敷跡なども新史料に基づき論証を加えました。

 芥川に関わる水論の特徴は井堰に関わるものだけでなく、

山麓地域特有の伏流水の確保に関わる争論が多いことです。伏流水は「戸手」と呼称される井戸でもって確保され、それが下流域の用水として河川と同等なくらいの価値を有していたのです。

 古来芥川は三好長慶とあわせて語られてきていますが、伝承は誤りの多いもの、真実を掘り起こすのが歴史家の仕事です。

 右の研究は平成18年に出版したもので新発見、新事実がいくつもあります。ご希望者には頒価1500円でお譲りします。

 研究の中身は目次をご覧ください。

 水論の概略については、以下をお読みください。詳しくわかります。

 

 左の著書は、高槻市の図書館、大阪中之島図書館、大阪中央図書館、茨木市や島本町の図書館でも読むことができます。

 左の古図は真上井堰の位置を確定する証拠となったものです。すぐ上流に郡家村「今井手井堰」があり、元和元年の川替え

は真上井堰に影響のないように実施されたことも他の古絵図から判明しました。

 真上井堰の権限を掌握している真上村庄屋田中与左衛門より、下流の高槻村、上田部村、古曾部村、芥川村へ用水供与の誓約を領主吉田修理家臣吉田弥三右衛門宛差し出した天正20年6月28日付け文書である。

 川向こうの大蔵司集落、手前白い乗用車が停まっている下あたりに郡家村今井井堰がある。この写真当時は井堰は存在している。井堰の上流で水が堰止められ淀んでいる。摂津峡ハイツ住宅の生活排水が「今井手」の流入しないように、土手沿いに悪水を下流へ流すコンクリート水路が設けられている。昭和50年代半ばの撮影

左は昭和48年当時の今井手井堰、これも昭和45年、摂津峡ハイツ住宅建設後、生活排水を郡家村に流れ込まないように

右手に排水路を設け、それまでの井堰を取り壊し

3段堰を1段堰に改修した後のものである。

魚の上下移動ができなくなった。

右岸はまだ山林であるが、上部は開発され、丸紅のゴルフ場ができていたので、降雨があると激しく土砂が川に流れ込み、川底は泥の溜まる汚い流れに変貌していた。



1983年、今井手井堰の撤去工事、井堰を撤去するとともに、井堰上流の弓なりに湾曲して薮を削り取り、大きく広がっていた川原敷を埋め立て

川幅を2分1以下に縮小

埋め立てたところに、バス道路、下段に川岸の遊歩道が作られた。

今、アクアピアに通じる

遊歩道。


埋め立てられた右岸の護岸工事の完了。

この後、今井手井堰が撤去され、川床が下げられ

郡家用水は芥川から自然には流入できなくなったので、電動式ポンプ小屋が設置され、必要なときだけポンプアップで送水される仕組みになった。

ポンプアップだと、何も上流の大蔵司から取水しなくても、下流でも可能なので、今は郡家村のすぐ下にある二の湯井堰からポンプアップで取水しており、数百年に渡る今井手井堰も用水路も無用になった。

右は昭和23年の航空写真です。西之川原から南下した芥川が、段丘部を削り取り、川原を広げ、大蔵司方面へ蛇行しています。

これはこの川の習性で、右岸は土手もなく、自然の段丘に防御を任されていたから、浸食が激しく、そこで流れを右に変えて大蔵司集落に襲いかかるような形状になっていたのです。

それを矯正し、少し西に流れを動かせ、集落を守る形状にしたのが元和1年(1615)の川替えだったのです。

永禄2年の三好長慶裁許状付図は、改修前の芥川にもとづき、裁決しているもので、当時の井堰はすべて撤去され、真上井のみ川替えの影響を受けず、安永年間まで残っていたのです。

写真、右下に見える集落の左手に郡家村の今井手井堰があり、用水路「今井手」に取水されていました。