摂津国島上郡服部郷は、和名抄に登場する古い集落、この地は5つの垣内によって成立していた。塚脇、宮之川原、西之川原、浦堂、大蔵寺がそうである。
塚脇は服部郷の祖服部蓮の墳墓の周辺に展開する集落、宮之川原は集落の西部を古代に河川が流れていたことに由来する。尤もこの河川は芥川自体が東に蛇行していたという推定と芥川の支流である小山谷川(おやんだにがわ)が河川敷を展開していたとする推論のどちらかはまだはっきりしない。
西之川原は近世明暦期頃まで集落の東側を芥川が流れていたことに由来する。この事実は、寛文元年(1661)に古川跡を開発した新田が村高に高入れされており、
天保14年の村明細帳にも記載されている。明暦期以前は服部村に流れ出た芥川は
300メートルほど下ったところで岩盤に阻止され、流れを左手に振って塚脇集落の南から西之川原集落の東北部に達しそこから再び右手に流路を変えて、西の山の裾野を削り取りながら大蔵司方面に流れていたのである。芥川の西部に展開する集落としてその名が発生したものである。
大蔵司は元寺から起こった村名で、古くは大蔵寺であった。この寺院名は相国寺関係の文書にも出てくるし、天正10年頃に高山右近が実施したとされる天川村検地帳に中間得分権者として登場し、1町歩以上の寺領を保有していることも判明する。何より近世の地方文書はすべて「大蔵寺」と記載されている。これが大蔵司に変えられたのは宝暦5年(1755)である。寺が消滅して150年近くもなることと、当時の庄屋の先祖が島上郡衙に設けられていた大蔵ノ司という職名にあったとする伝承記録を有していたからである。郡衙には朝廷の3蔵があり、内蔵、斎蔵、大蔵がそうであり、大蔵ノ司という職務は、大蔵の管理者であり、度量衡を取り扱ったとされるものである。
そのことが服部郷の氏神、神服神社の社記に記載されており、それを根拠に当時の
服部村の領主である永井若狭守尚俶公が巡検で庄屋宅を訪問されたとき、村名変更の申し出をして許可を得、「大蔵司」の書とその変更の由来を奥書として残している。
浦堂の由来については、これまでに論じられたものは全くの憶測に過ぎないものばかりである。津之江、前島、深沢などの地名は瀬戸内海の海侵現象が盛んだった頃の名残の地名にちがいないだろうが、服部のような山麓部ではそれを類推することはあたらない。
浦堂はこの地に存在する大寺天台宗安岡寺に起因すると自分は以前にも書いたことがある。それを裏付ける史料が発見された。
元禄3年の文書で、このとき島上郡の村明細帳の作成が命じられたらしい。郡家、岡本、氷室などの村とともに、服部村の明細帳の下書きが残されている。その中の
神社仏閣の項で、安岡寺がある。
天台宗壱ケ寺比叡山末寺 人数十三人 内僧八人 姥一人
南山安岡寺般若院ト申候宝亀六年光仁天皇長子開成皇子之開基ニテ御座候寺中
四坊御座候
と続くなかで、寺領除地「観音堂屋敷東西三町南北五町」とある。
この観音堂屋敷というのは、安岡寺の全領域であり、明治維新上地の際には、東西五町、南北九、五町とされた寺領である。安岡寺は元禄時代には観音堂と呼称されていたのでありる。塔頭は4坊あり、泉蔵坊、大日院、藤本坊、阿弥陀院であるが、本堂に安置されている本尊は「如意輪観音」であることから、安岡寺をさして村人は「観音堂」と呼んでいたのである。そこで、集落の後背部に「観音堂」を戴く垣内ということで
「浦堂」の地名が生まれたのである。